Masukまだ事情がはっきりしていなかったため、弥生は彼に頬をつままれても素直に受ける気になれず、ぱしっとその手を叩き落とした。「触らないで」ところが瑛介は手を引くどころか、身をかがめて大きな手を彼女のうなじに添え、低い声で説明した。「分かった分かった。確かに女の子の連絡先は追加した。でも、すぐに削除した」「どうして、追加してから削除したの?」「追加しないと、動画を送ってもらえないだろ」「......動画?」「分かってるだろ?」その瞬間、弥生はようやく気づいた。彼が言っている動画とは、あの女の子がさっき盗撮していた、瑛介が自分にキスをしたあの映像のことだ。当時、二人が連絡先を交換しているのを見て、そこまで思い至らず、てっきり。つまり彼は、動画を受け取るために連絡先を交換しただけだったのだ。自分がさっきまで彼に冷たい態度を取っていたことを思い出し、弥生は一気に気まずくなった。「......僕が、他の女の人と連絡先交換したと思った?」瑛介は彼女の鼻先をちょんとつついた。「あなたのためなら命だって差し出す僕が?わざわざ他の女の子と連絡先交換して、面倒を増やすと思う?」その言葉は、他人が言えば軽く聞き流しただろうし、昔の弥生なら甘い言葉として受け取っただけだったかもしれない。でも、瑛介が実際に危険を顧みず自分を助けてくれたことを知っている今、その言葉は冗談ではないと分かる。彼は、本当にそうする人だ。反論できるはずもなく、むしろ過去のことを思い出して胸がじんとした。「......ごめんなさい」弥生は小さく呟いた。「私、勘違いしてた」瑛介は、彼女が嫉妬しているのが可愛くて仕方なかっただけだ。彼にとって、嫉妬は大切にされている証であり、それが嬉しかった。だから、弥生が謝るとは思っていなかった。突然の「ごめんなさい」に、瑛介は一瞬で慌てた。「ばかだな。弥生が嫉妬するのは僕は嬉しいんだよ。僕を気にしてくれてるってことなんだから。謝る必要なんてない」弥生はぱちぱちと瞬きをした。「でも、私が誤解して、あなたに当たったのは事実だし。謝るのは普通でしょ」「いらない」瑛介はきっぱりと言った。「僕に対しては、何をしてもいい。どんな態度でもいい。僕に申し訳ないなんて、思わなくていい
「昨日あまり眠れなかった?それで体調がよくないとか?それとも、口紅選びで歩き疲れた?じゃあ、ここにある色、全部買おうか。もう選ばなくていいから、戻って休もう」「弥生?」弥生が口紅を見ているあいだ、瑛介はずっとそばに張り付くようにして、あれこれと問いかけ続けていた。そしてふと顔を上げると、目の前には心配そうに眉を寄せた瑛介の整った顔と、その真剣な眼差しがあった。弥生は思わず唇を結び、少し戸惑った。彼はとても慌てている。本当に、私が怒っていることを気にしてるみたい。......もしかして、私の勘違い?そう思いながらも、胸の奥に引っかかるものは消えない。弥生は一度深く息を吸い、瑛介を見上げて問いかけた。「......さっき、何をしてたの?」ようやく話しかけてもらえたことが嬉しかったのか、しばらく冷たくされていた瑛介は、すぐに身を乗り出してくる。「さっき?見てたろ?あの二人に......」説明し終える前に、弥生は白い手のひらを差し出した。「スマホ、貸して」その言葉を聞くなり、瑛介は迷いなく自分のスマートフォンを彼女の手のひらに置いた。画面を見ると、ロックがかかっている。弥生が何か言う前に、瑛介が続けた。「暗証番号は、君の誕生日」......誕生日?少し考えてから数字を入力すると、ロックはすぐに解除された。自分の誕生日がロック解除の番号だと知った瞬間、弥生の胸の中のざらつきが、少しだけ和らいだ。気持ちも、さっきほど尖ってはいない。弥生はすぐにメッセージアプリを開き、最近の連絡先を確認した。知らないアイコンがあるかと思ったが、一番上に固定されているのは自分で、その下も見覚えのある家族の連絡先ばかりだった。友だちの数自体も驚くほど少ない。トーク画面では分からず、弥生は鼻を少しすぼめて連絡先の一覧を開いた。だが、指を上下に動かしても、すぐに一番下まで行ってしまう。......何もない。スマホを受け取ってからずっと、瑛介は彼女のすぐ横に立ち、操作を覗いていた。何度もスクロールする弥生を見て、不思議そうに首を傾げた。「何を探してる?」「......さっき追加した友だち」弥生は深く考えず、素直に答えた。その瞬間、瑛介は一拍置いて目を瞬かせた。「.
その声を聞いた瞬間、弥生ははっとして、隣に立つ人物を見上げた。目に飛び込んできたのは、にこやかに笑っている瑛介だ。「待っててって言っただろ。どうして一人で行った?」弥生は唇を動かしかけたが、先ほど彼があの女の子と取った行動が脳裏をよぎり、胸の奥が理由もなくざわついた。結局、言いかけた言葉は飲み込み、瑛介を無視して店の奥へと歩いていった。瑛介は口元に笑みを浮かべたまま、彼女がその色を気に入ったのだと思い、手を伸ばして取ろうとした。だが、弥生は一瞥しただけで背を向けてしまった。しかも、どこか不機嫌そうだ。瑛介は一瞬動きを止め、彼女の背中を見つめて考え込んだ。......今の一言、何か気に障っただろうか?深く考える間もなく、彼はすぐに後を追った。「さっきの、見ないのか?色、きれいだと思うけど」追いかけてきたうえに、まだ口紅の話をするとは思わず、弥生は眉をわずかにひそめた。どうやら、「モテ色」というのも、あながち嘘ではないらしい。もっとも、万能ではないにせよ、一定の根拠はあるのだろう。少し考えてから、弥生は足を止めて尋ねた。「......あなた、好きなの?」瑛介は特に深く考えずに答えた。「好きだよ。前に、ほかの色は普段使いしにくいって言ってただろ?あの色なら自然だし、弥生の唇の色にも近い」そう言いながら、彼の視線は自然と下がり、弥生の唇に落ちた。少し前まで体調が万全でなかった頃は血色が薄かったが、最近は心も落ち着き、食事もきちんと取れている。そのおかげで、唇は柔らかな淡いピンク色を取り戻し、白い肌に映えていた。だが弥生は、彼のそんな考えなど知る由もない。胸に残るわだかまりのせいで、瑛介の「好きだ」という言葉を聞いた途端、つい刺のある返しをしてしまう。「好きなら、自分で買って使えば?」そう言い捨てると、また彼を無視して歩き出した。二度も無視されたことで、さすがの瑛介もようやく何かを察した。その場に立ち止まり、少し考えたあと、踵を返して先ほど弥生が見ていた口紅を手に取り、再び彼女を追いかけた。大きな歩幅で数歩進むと、すぐに追いつき、細く白い手首を掴んだ。「......怒ってる?なんで?」手首を握られ、弥生は眉を寄せた。「別に」口では否定しながらも、彼の
幸いなことに、さきほど瑛介が顔を下げてキスしたのは唇ではなく、口元だった。この程度なら、仮に動画が拡散されて誰かに見られても、そこまで恥ずかしいものではない。それに、さっきの行動は明らかにわざとだった。盗撮に気づいたうえで、あえて人前でいちゃついて見せたのだ。その意図を察して、弥生は呆れたように言った。「自分が芸能人だとでも思ってるの?見せつけたって、私たちただの一般人なんだから。仮にネットに載せられても、誰も見ないよ」だが瑛介はまったく気にしていない。「別にいい。誰も見なくても、僕が見てればそれで十分だ」そう言うと、弥生の腰に回していた手を離し、二人の女の子のほうへ歩いていった。「ここで待ってて」弥生はついて行こうとしたが、その一言で足を止めた。......まあいいか。わざわざ付いて行っても仕方ないし、正直もう歩くのも面倒だ。そう思って、その場に立ったまま様子を見守ることにした。女の子二人は、さっきまで嬉しそうにスマホを見ていたが、瑛介が近づいてくるのに気づくと、表情が一変し、反射的にスマホを背中に隠そうとした。だが数秒後、「それはかえって失礼かも」と思ったのか、瑛介が目の前に来ると、自分からスマホを差し出した。二人の顔には、しょんぼりした色が浮かんでいる。その様子を見て、弥生は首をかしげた。......見せつけたかったんじゃないの?それとも動画を消してもらうつもり?でも、それなら最初から撮らせなければよかったはずだ。よく分からない。距離があるため、会話の内容までは聞こえない。ただ、瑛介の薄い唇が動き、何か話しているのは分かった。すると、不思議なことに、彼が話し終えたあと、女の子たちの沈んでいた表情が次第に明るくなり、目も輝き始めた。まるで、自分の耳を疑っているかのような顔だ。その後、瑛介がスマホを取り出し、女の子の一人がそれを読み取ったように見えた。その瞬間、弥生の眉がきゅっと寄り、唇も無意識に結ばれた。これ、どこかで見たことある光景だ。道端で声をかけられて、連絡先を交換するやつ。一人がコードを出して、もう一人が読み取る。今、瑛介とあの女の子がしているのは、それと同じではないか。さっきまで、瑛介の行動に少し浮かれていた気持ちは、一気に沈んだ
瑛介の母に「今は化粧品はダメよ」と言われると、ひなのは素直にこくりと頷いた。「じゃあ、ひなのは行かない」瑛介の母はすぐに瑛介と弥生に向かって手を振った。「ほら、早く行ってらっしゃい。ひなのと陽平は私たちが見てるから、心配しなくていいわ」二人がその場を離れたあと、ひなのは小さな顔を見上げて瑛介の母に尋ねた。「ねえ、おばあちゃん。ひなの、大きくなったら化粧してもいいの?」瑛介の母は小さな鼻をそっとつつき、声も表情もとびきり優しく答えた。「もちろんよ。大人になったらね、そのときは好きなだけおしゃれしていいの」それを聞いたひなのは、もう未来を思い描いているようだった。「じゃあ、そのときはおばあちゃん、ひなのにたくさんたくさん化粧品買ってくれる?」ほとんどの女の子は、子どもの頃に「大人になったら化粧品をいっぱい持ちたい」と一度は夢見るものだ。「いいわよ。たくさん買ってあげる。」ひなのは返事の代わりに、ちゅっとキスをした。空港はとても広い。瑛介と弥生は並んで歩いているだけで目を引く存在で、行き交う人々が思わず視線を向けていた。こっそりスマホを取り出して写真を撮る女性もいるほどだ。弥生もそれに気づき、小声で瑛介に言った。「なんだか......撮られてる気がする」その視線を追って、瑛介がそちらを見ると、確かに一人の女性がスマホをこちらに向けている。盗撮がばれたことに気づいたのか、彼女は気まずそうにカメラの向きを変えた。瑛介は一瞥しただけですぐに視線を戻した。特に拒否されなかったと分かったのか、女性はまたカメラをこちらに向けてきた。瑛介は歩きながら、ふと弥生に尋ねた。「気になる?」弥生は唇を軽く結んだ。「別に......ただ、あなたは平気かなって」自分は芸能人でもないし、人目のある場所で写真を撮られても、そこまで気にはならない。でも、自分が平気でも、瑛介がどう思うかは別だ。すると瑛介は、口元を少し上げて軽く笑った。「奇遇だな。僕も気にしない」その言葉に、弥生はぱちりと瞬きをした。二人とも気にしないのなら、撮らせておけばいいか、と。もう一度、写真を撮っている女性のほうを見ると、なぜか彼女が急に興奮した様子を見せた。弥生が理由を考えるより先に、隣にいた瑛介が
「冗談だよ。まさか本気だと思ったか?」弥生は機嫌よくはなく、彼の手をぱしっと払いのけた。「冗談かどうかなんて、分かるわけないでしょ」とはいえ、最終的には瑛介は彼女のスマホを自分のコートのポケットにしまい、こう言った。「飛行機に乗ったら返すよ」「......ふうん」弥生は思わず小さく白目をむいた。「返す気はあるの?ずっと没収かと思った」「ん?それでも別にいいけど。どうせ機内では使えないし、到着してから返しても問題ないだろ?」そのあまりの図々しさに、弥生は一瞬言葉を失った。この人、本当に......もういい、相手にするのはやめよう。弥生は目を閉じた。搭乗までまだ少し時間がある。昨夜あまり眠れなかったので、少し仮眠を取ろうと思ったのだ。ところが、瑛介が彼女の手を取った。「寝るのは後でいい?」その声に、弥生は目を開けた。「どうして?何かあるの?」言い終わる前に、彼女は椅子から立たされ、そのまま瑛介の腕に引き寄せられた。大きな手が彼女を抱き込んだ。そして、頭上から気だるげな声が落ちてきた。「搭乗までまだ時間あるし、ちょっと買い物行かない?」その提案に、弥生はきょとんとした。「......何を買うの?」「昨日、荷造りしてたとき言ってただろ。口紅、あんまり残ってないって」そう言われて、弥生は昨日のことを思い出した。荷造りの途中で口紅を確認したら、使用期限が切れているものがかなり多かった。期限切れの口紅で唇が荒れるのが怖くて、思い切って全部処分してしまったのだ。残ったのは、未開封で色味の強いものばかり。仕事のときなら問題ないが、正月に家族と過ごすには、少し派手すぎる気がした。瑛介が一緒に荷造りしていたこともあり、弥生は深く考えず、何気ない愚痴として「もう塗らないでいいかな」などと口にしただけだった。そのとき瑛介は特に反応しなかったので、弥生も気にしていなかった。まさか今になって、買いに行こうと言い出すとは思わなかったのだ。口紅のことを思い出し、弥生は唇を軽く結んだ。時間がなければ、到着してから探せばいいくらいに考えていて、空港にコスメショップがあることをすっかり忘れていた。そのとき、二人の会話を聞いていたらしい瑛介の母が、弥生がぼんやりしている間に声